石器時代?
豊牛駅*付近の海岸には、哲の見立てでは、竪穴式?の住居跡と思われる起伏が沢山あった。そこは石器時代から人類が生活をしていた土地であると哲は確信している。そこはたしか小林さんというお家の牧場だったと記憶している。そこのお家の方は獣医さんだったり、高校の先生だったり色々な顔をお持ちの人で、頬には笑窪のような傷跡があったのも覚えている。ただ、すべてが同一人物かどうかは怪しい。(*:googleって、Linkしてあります)
<緬羊/綿羊>
我が家では緬羊を2頭飼っていた(自分ん家では、羊のことをメンヨウと言っていた)。雪が解けて暖かくなった5月頃だと思う。やはり、緬羊を飼っている農家で毛を刈る作業が始まる頃、我が家の2頭もお願いして、毛を刈ってもらうのだ。刈った毛は秋になると、洋服の生地や毛糸になって我が家に届けられるのだ。2頭分の羊毛で洋服生地だと親父のスーツ1着分、毛糸だと子供のセーター2~3着分に毛糸の靴下が何足かにはなったと思う。
小林獣医さんのお世話になったのは、緬羊の赤ちゃんが生れた時だったように記憶している。寒い真冬に生れていて、気づくのが遅れてしまい、2頭のうち1頭しか助からなかった様に記憶しているが、定かではない。とにかく獣医さんにきてもらったのだ。小羊を部屋の中に連れてきて必至で体をマッサージして暖めてやったことを覚えている。
そういえば、小林さんのお家から1升瓶で牛乳を頂いたいただいたことがある。誰も疑わず、”牛乳”だと思ったのだ。おふくろがいつも通り、鍋に牛乳をいれて湧かそうとした。ドロリとした牛乳におふくろが、ハテ?と舐めてみたら、何とそれは甘~い”練乳”だったのだ。今はチューブ入りで見かける、苺にかけるあの練乳を1升である。田舎らしいできごとかな~
<石器&土器>
小林さん家の牧場にあった住居跡はその後どうなったのかは知らない。発掘調査があったという話しも聞いていない。学校の直ぐ横手にあった我が家の畑では黒曜石で出来た石器や土器の破片がしばしば見つかった。だから哲は確信しているのだ。豊寒別は本州からの開拓民が入植する、はるか以前の石器時代から人類が住んでいた土地だと。海の幸や山の幸が豊富で、山の小川にはヤマメまでがいた。冬のシーズンを除けば豊かな生活環境だ。
学校にも石器や土器の破片が標本の様に沢山あった。また、学校の仲間が石器をごく普通に収集していた。中には格好のよい、明らかに弓矢の先に使われたと思える鋭い石器を持っていて、羨ましい思いをした記憶もある。
しかし、オホーツクの沿岸は極寒の地である。住居跡ということは、そこに定住していたということである。アイヌ人だったのだろうか。年代は分からないが、そこで生活をしていた石器時代の人びとはいったい冬をどう過ごしていたのか気になる。自分が住んでいた時も半端じゃない寒さを経験している。着物はどうした、火はどうした、食料はどうしてたか・・・彼らはどんな文明を持って冬を過ごしたのだろうか、不思議だ。
哲が過ごした時代は電気は無いが、ランプはあった。セーターもあったし、暖をとるストーブだってあった。木造だが、雪や雨風をしのぐ家があった。食料だって、みがき鰊や漬物だけでなく、じゃが芋・大根・人参・南瓜・キャベツなど冬でも食べられるように野菜をそのまま貯蔵するノウハウも持っていた。もちろん麦やお米も貯蔵出来ていた。ドアの向こうには立派な学校だってあったのだ。道産子哲が育った土地は、ジョージが心配するほどの田舎ではなかったのかもしれない。
<毛糸つむぎ機?>
使っているのを見たことはないが、我が家に変な足踏み式の機械があった。ミシンではない。羊毛から毛糸を紡ぐ機械だと思う。手元の穴から、少しずつ羊毛を入れていくと、その先の糸巻の状のところに毛糸が出来上がっていくんだと想像できた。大昔おふくろは、その機械を使って毛糸を紡ぎ、セーターを編んでいたのだろうか。全く使わないのに、長いことその機械は我が家に存在していた。
<追記>
遺跡の情報をGoogleで検索しましたが見つけることができませんでした。1967~8年頃に親父が小学校の校長を務めていた枝幸町のHPがありました。そこに遺跡の話が掲載されており、内容は関係あるのではないかと思いましたので、Linkしておきました。
豊牛:トヨウシ 北見枝幸:キタミエサシ


Comments
哲ちゃん
黒曜石は採掘場所が限られるので、多分何処から運ばれたのかは、判ると思う。青森の遺跡では縄文の時代には既に大航海がされていたんです。
もう少し、時代を逆戻りすれば、氷河期に南下したシベリアのマンモスを追いかけて南下した連中がいます。
彼らは、動物の骨に鋭い鋭利な砕石を無数に埋め込んだ武器を使い動物のハンテングをしたそうです。
哲ちゃん、氷河期でも人間は生き延びたのです。
ランプはなくても、大丈夫です。
Posted by: jo | March 02, 2005 at 11:43 PM
確かにたくさんありましたね。親がこちらの方に興味の有る人なら、我々の誰かが嵌って行ったかも知れませんが、宝の持ち腐れでした。私が高校時代に北大から調査隊が来て、学校で特別講演を大庭(場?)?教授とやらがやってましたが、私も興味ありませんでしたので聞いては居ませんでした。北大に問い合わせるとこの遺跡の名前が分かるかも知れません。
小林先生は高校の国語の先生でした。獣医であり国語の先生であり、バスケット部の顧問をし、家業(小林牧場)の手伝いもしている人でした。私と祥子さんが習っています。
面羊の子は二匹共死んでしまいました。一匹は助かるかと思ったのですが、翌朝・・・。慣れない事だったので可愛そうな事しました。それから雌は飼わなくなりました。
刈り取った毛は全て毛糸に交換してました、後の方は。始めは哲さんの言う機械で紡いで居たのです。まず細く紡ぎ、その紡いだ糸を三本撚り合わせて我々の靴下、セーターの毛糸になる。それを我々が寝てからお袋がセッセと編んでましたっけ。朝起きると枕もとに新しいのが出来てるのが楽しみでした。その代わりお袋の肩揉み随分させられましたっけ。
Posted by: 侃 | March 03, 2005 at 06:53 AM
訂正です。
小林先生は世界史の先生でした。
Posted by: 侃 | March 03, 2005 at 11:22 AM
祥子さんから連絡があり、日本史を教わったそうです。歴史の先生だったのですね。祥子さんは授業中、内職をして叱られたと言ってます。私も余り授業は印象に残ってません。真面目に授業していた先生でしたが、退屈だったのでしょう。
小林先生の追加分でした。
Posted by: 侃 | March 03, 2005 at 09:15 PM